３月２９日（水）
	その季節に一番きれいな花を
	いろんなことが起こりすぎて、日記の日付が意味をなさなくなっている。 　出来事があっというまに通りすぎていく。 　桃の花を見に行った。そこはガイドブックには載っていない。有名な場所と いうのは、とにかくカメラでパシャパシャやってる人が多くてワシは落ちつか ないのだ。テメエら十歩移動するたびに写真撮ってるんじゃねえか？　と思う ほどみんながみんな写しまくっていて、その様子を見ているだけで私はたっぷ り疲れてしまうのである。もちろん純粋に花を撮っている人はいなくて、花を バックに自分たちを写しているわけである。 　休憩所からヤキソバやタコヤキの匂いが漂ってくるのも好きじゃない。だか ら有名な所にはほとんど行かない。行ったとしても平日だ。私は、田舎の土手 っぺりのコスモス畑とか、田んぼがスミレ畑に化けてるとことか、地元の広報 誌にしか載らないようなところが好きだ。でも、そういう場所は地元の人は案 外と見に行かないもので、まったく悠々と花を独り占めできる。 　飴玉を一つ口に放り込む。私はすぐにかじってしまう。飴がガリガリいう音 を耳の内側の奥で聞くのはくすぐったくて気持ちがいい。その音を聞きながら 一人でゆっくり花を眺めているのが私にはちょうどいいのだ。 　花は誰かと一緒に見た方が楽しいんだろうな、ということは私にもなんとな くわかる。私も恋人と二人で見に行くこともある。でも、花を見るのはどうも 一人の方が落ちつくんだよなあ私は。どうしてなんだろう。それは長年の私の 疑問だった。桃の花を見ていたら、ふいに疑問が解けた。 　花っていうのはあんまりきれいだから、長い時間見ていると少し哀しくなる んだ。私はその澄んだ感覚がたぶん好きなのだ。それは決して悪い感じの哀し さじゃない。哀しくてやがてだんだん元気が出てくるって感じかなぁ。 　三月の日記は人が死ぬ話が多いということに今気づいた。 　もし彼女の死がそこに加わっていたら、私の日記はそこで終わっていただろ う。いや私が終わっていただろう。自殺とかそういう単純なことじゃなくて、 私が終わってしまったと思う。 　貴ちゃんが自殺未遂したと貴ちゃんのお母さんから聞いたとき、全身から力 が抜けた。お母さんの声がぼんやり遠くなる。受話器を持つ手が震えた。 　貴ちゃんは借金騒動で友人を無くしてしまっているので、家族以外では私く らいしかお見舞いに行く人間はいない。 　桃の花を見ているうちに、また体が震えてきて涙が出た。泣き方なんてとっ くに忘れているかと思ってた。花粉症じゃなくて感情で出る涙なんて何年ぶり だろう。人の体って優しくつくられてるんだなあと変なことを思った。 　助かってよかった。本当によかった。神様ありがとう、とは思わない。神様 なんて私は信じない。そんなものいるかバカヤロー。 　待ってるずっと。あなたを苦しめている「透明な借金」を一緒に返そう。少 しずつ返していけばいいよ。そして、いつか病院を出たとき、その季節に一番 きれいな花を一緒に見に行こう。 　うたた寝していたら、奈々ちゃんに起こされた。 「コンビニ行ってくるけど、買ってくるものある？」 　半ボケの頭で私は答える。「……うーん。おでん食べたい。あと抹茶アイス と、うーんと、ポテトチップ」 「ポテトチップは筒？　袋？」 　私はどっちかというと、カルビーのポテトチップよりナビスコのチップスタ ーが好きだ。筒のところで、奈々ちゃんはゲンコツを二つ合わせて筒の形にす る。それがやけにかわいくて、変だな、鼻がツンとした。 「筒」と私も手を筒の形にして言う。
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