２月２２日（火）
	泣かなくていいよ
	その人は私を見るとベッドから体を起こした。 　私はそばのパイプイスに腰掛けた。 　どちらも喋りださない。 　私は妙に照れくさくて顔を上げられなくてずっと下を向いていた。 　余命六ヵ月にしては元気そうな顔だった。 　何か彼に言っておきたいこと、聞いておきたいことはあるだろうか。ものす ごくたくさんある気もしたが、まったくない気もした。 　私は眼をあげた。視線が合う。眼のまわりの皺が深いなあと思った。 　それだけ時間がたっているのだ。彼はどんな表情をすればいいのかわからな いようで、笑っているようなこまっているような変な顔をしている。 　この人が口を開いて最初に言う言葉は何だろう。 　彼の両手がすっと延びてきて、私の右手をそっと握った。湿ったなまあたた かい手だった。 「直」と彼は言った。 　私はこくんと頷く。 　長い間会ってない人の何を忘れてしまうかと言えばそれは声ではないかと私 は思う。その人の顔は少しも記憶から薄れないのに、どういう声なのかはいつ のまにか記憶から消えている。 　けれど、記憶は瞬間的に蘇るものらしい。「直」という声を聞いた途端に、 ああ、この声だ、と時計が逆回転をはじめた。 「直、直」 　彼は何度も私の名前を呼んだ。そして、私の手を握ったまま、ぽたぽたと涙 をこぼし、「ごめんなぁ」と言った。 「泣かなくていいよ」 　私は言った。 　何かが私の中で終わった。一つ、大きな区切りがついた。 　私はこの年なってもまだ無意識に彼の帰りを待っていたのかもしれない。い い大人になってもまだ待っていたのかもしれない。 　もう待たなくてもいいんだ。 　少しも恨んでない。ただ、あなたが大好きだっただけだ。それがわかった。 　こんどこそ二度と会うことはないだろう、私のお父さん。
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