２月９日（水）
	もうすこしマトモな人間だったら
	ジョン・アーヴィングの小説の主人公のように、自分がもうすこしマトモな 人間だったら……と私はいつも思っていた。 　私がもうすこしマトモな人間だったら、愛する人を傷つけないですむ生き方 を探れたかもしれない。 　私はどうして愛する人を痛めつけるセックスが好きなんだろうか。 　愛する人が私を睨みつけるときの刺すような視線に、このうえない興奮を覚 える変態なんだろうか。 　相手のことを愛すれば愛するほど私の変態は強まる。ふつうに好きな相手に ならふつうのセックスができるのに。 　千佳が私を置いて韓国に行ってしまったのは、結局は私から逃げるためだっ たのだろう。韓国に立つ一ヵ月前、千佳は私が触れると体をビクッとさせるよ うになっていた。ソファに座ってる千佳ちゃんの肩に、後ろから私が手を置く と、体をビクッと硬くして脅えた顔で振り向く。 「ご、ごめん。何の雑誌読んでるのかと思って……」 　話しかけた私のほうがびっくりした。 　ベッドの上でならわかるが、まだ昼間の明るい時間だった。 　昔から人間関係が下手だった。 　下手というのとも違う。無かった、関係なんてものが。 　恋人以外の人間との付き合いが私には無い。空のマスターとだって、私が引 っ越したら二度と会うことはないだろう。会うつもりもない。私は引っ越しグ セがあるので、たぶんマスターともあとわずかの付き合いだ。 　他人と仲良くなりたくない、深い付き合いをしたくない、恋人がいなかった ら一人でいい、なのに、その恋人さえ傷つけてどうしようというのだろう。傷 つけることで快感を覚えるなんて、一体どういう人間なんだろう。 　なんで私はこうなんだろう。どうしてこうなってしまったんだろう。 　本だけが私の友達だった。 　本は私を残して失踪しない。開けばいつだって本は私に話しかけてくれる。 　叔母は言う。 「あんたが家に一人でいてかわいそうだったから、おばちゃんと遊ぼうかって 言ったのよ。あんたが三才のときよ。あんた、こう言ったわ。『いいの、本読 んでるから』って。不憫な子だなあって胸が締めつけられたのよ」 　私はそういう子どもだった。 　別に本そのものは大切に扱わない。平気で折り目をつけるし、重い本は読み たいところだけバサッと破ってホチキスでとめる。定価五千円のハードカバー を風呂のなかで平気で読む人だ。私にとって大事なのは、そこに書かれている 言葉であり物語である。 　このごろ、わかってきた。 　きっと私は本になりたいのだ。 　看護婦とか野球選手とかケーキ屋とかお嫁さんとか、何々になりたいという 願望と同じだ。小さいときから無意識に、私は本になりたいと思っていたよう な気がする。少し違うな。本という限定された形ではなくもっと広い意味だ。 　言葉、文章、物語……そういったものに私はなりたい。なって、どこかに運 ばれ、誰かのもとに風のように飛んで行きたいと。 　それが、私が人とかかわる方法なのだと思う。 　私にはそれしか方法がない。 「直ちゃんはなんで文章を書くの？」 　千佳に聞かれたことがあった。 　そのときは、うまく説明できなくて、私はこんなふうに答えた。 「誰かが私の書いた文章を読むでしょ。それは本かもしれないし、ネットに書 いたものかもしれない。読んだ人がいつかね、十年後、二十年後、あるいは五 十年後にふっと誰かに話すんだ。『昔、こんな話をどこかで読んでね』って。 そして、相手はこう言うの。『へえ、ちょっといい話だねえ』って。『で、そ れ、誰が書いたの？』って訊くわけ。けど、『えーと、誰だったかなあ……』 って思い出せないんだ。それって、なんだかいいと思わない？」 「うん、なんだかすごくいいと思う」 　千佳はニコっと笑って、それから、ふいに泣きだした。 「なんで泣くの？」 「ホッとしたから。直ちゃんも人とかかわりたいと思ってるってわかって」 　そう言うと、千佳は私の唇にキスしてきた。 　マトモでない私が唯一持っているマトモな方法、それが「書く」ということ だ。本が売れなくてもいい。馬の骨でいい。私が書きたいから書く。書きたい ことだけを書く。書きたくないことは頼まれても書かない。私は誰にも強制さ れない。私は自由に書く。 　書くことで、すこしはマトモになれるかもしれない。マトモになりたい。 　えーと、誰だったかなあ……。そんなふうに、誰かの記憶の中に朧げに痕跡 を残せたらそれでいい。
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