２月３日（木）
	Bar 空
	なんとなく夜は空に足が向いてしまう。 　大事な人とケンカ別れした。 「彼、ひどいでしょー？」と私はマスターに言う。 「ああ、ひでえな」とマスターは答える。 「私もバカだよね？」と私は言う。 「ああ、大バカだな」マスターは笑って言う。 　ブラッディーマリーを飲みながら、私は可笑しくなる。マスターの話の聞き 方はいつもこうだ。オウム返しのように相手に相槌を打つ。 　だから、私も安心して話せる。 「ありがと。煽らないでくれて」と私は言う。 「ああ」とマスターは素っ気なく答える。 　空はいつ来ても静かだ。 　音楽がかかってることはかかっているが、誰かが話していたら音は聞こえな い。本当に小さな音。決して邪魔にならない音。 　一気飲みする大学生は間違ってもマスターは店に入れない。もっとも、彼ら が入ってこれるような雰囲気の店でもないけれど。 　メニューは酒とホットドックと、あとは乾き物が少々あるだけ。 　インテリアはまったく凝ってないようで、さりげなく凝っている。 　看板には、「Bar 空　一人で気楽に入れる店」と書いてある。 　看板どおり、空は、一人で飲みに来る人が多い。 　一度店に入って、けっこう一人で来ている人がいるんだな、と思った人たち が、安心してまた一人で来る。 　一人で何度か通うちにいつのまにか顔見知りの人もできて、カウンターに座 ってる人たちが一言二言言葉をかわしあうようになったりもする。 　空はそんな店だ。 「ねえ、なんで空って名前にしたの？」 　今まで何度聞いてもマスターは教えてくれなかったので、今日もダメかと思 った。 「直、おまえ、空は好きか？」 　いきなり唐突に聞かれて、私は戸惑う。 「す、好きだけど、そりゃ」 「だろ？　そういうことだ」 　マスターは悪戯っぽく笑う。 「空が嫌いな人なんて世の中にいねえよ。ちょっと上見りゃ、いつでもそこに ある。世界中どこでだって空はある。第一、いくら見たって金がかからない。 ありがたいやねえ（笑）。昼は青空がきれいで、夜も夜空がきれい。小難しい 理屈なんていらない。空見てると、人間、いやなことがあったって少しは気分 が落ちつくもんだ。空が好きだから、店の名前も空にした。そんだけ。何か深 い理由があると思って、直、期待してたんだろう。ハッハッハー。素晴らしく 単純でいいだろ？」 　去年、私が出した本「綾。ホステス、22歳。」をマスターは、パラパラめく っている。 「こんないい本を出してくれた編集者とケンカしちゃダメだろう？　いや、ま あダメっつったって、人間どうし、そういうこともあるわな。それはしょうが ない。俺だって大事な人と仲たがいしたことはある。ただ、この先、二度と会 うことがなくても、直、恩だけは忘れるんじゃねえぞ。人間、恩を忘れたらお しまいだからな。恩を忘れる人間を俺は決して信用しない」 　ブラッディーマリーをもう一杯、マスターが置く。 「しっかし、直はブラッディマリーが好きだなあ。おまえはドラキュラか？　 こればっかり、うちでもう何百杯飲んでんだよ」と笑う。 　その日五杯目の赤い液体を私は飲み干す。 　家に帰ると、奈々ちゃんがリュックのそばで寝ている。リュックを持ち上げ ると重たい。中には私の原稿を印刷したものが入っている。 　ああ、本当になんてバカなんだろう。リュック営業ができると本気で思って いるなんて。 　もうあなたの本は出さないと編集者から言われて、七割方できてた私の原稿 は宙に浮いた形になった。 　大ライター様ではなく、どこの馬の骨かわからない無名ライターの私と出版 業界の結びつきは、かろうじて彼だけである。彼と決裂したということは、現 時点で私には本を出すことは不可能ということだ。 「あんな人、たよることない！　わたしが直ちゃんの原稿リュックに入れて、 東京中の出版社ぜんぶまわって見せに行くからいいよ！」 　昨日、泣きながら奈々ちゃんは言った。 　奈々ちゃんを起こして、私は言う。 「今日、なんとか出版社を見つけてきたよ。ホントなんとかね。からくもね。 やっとね。ちょっと疲れたけどね」 　私はやれやれと肩を叩いて言った。 「だいじょうぶ。本は出るから」 　そう言うと、奈々ちゃんはわーんと泣いて私にしがみついた。 「それから、彼のことをあんな人なんて言うんじゃないよ。人間、恩を忘れた らおしまいだからね。奈々ちゃんの大好きな直ちゃんの本を世に出してくれた 人なんだからね。恩を忘れる人間を私は信用しないよ」 　どこかで聞いたばかりのセリフだなあと思った。 　奈々ちゃんの止まらない鼻水を私はティッシュで「チーン」と拭く。
	←Back　　　 Index　　　Next→