血のゼリー
　


　 「直ちゃんさ、あたしの下着の匂い嗅ぐのはいいけど、夜中にそのへん徘徊し
て下着ドロボーとかしないでよね。やだよ、ワイドショーに『仰天！　女性が
下着ドロボー？』なんて直ちゃんが出ちゃったら」
　洗濯機の前で、千佳のパンツを鼻先にくっつけてくんくん嗅いでいたら呆れ
顔で言われた。

「だいじょうぶ。下着ドロボーって、洗って干してあるやつを盗んでいくんで
しょ。私が好きなのは洗ってないやつだよ。ほら、こんなふうに染みがついて
るのが好き。それに、どこの馬の骨かわかんない女のパンツなんか興味無いか
ら安心して。千佳のだから好きなんだよ。こんなに汚れてても」
「嘘だよ。そんな汚れてないよ。もう直ちゃん、大げさに言わないで」
「汚れてるって。ほら、こっち来て見てみなよ。やーらしいなあ、千佳のパン
ツは。やーらしい匂いがするなあ」
　私は、ふざけてパンツに顔を埋めてみる。
「アホらし。直ちゃんだって生理前はそうなるじゃん」

　さきほどから千佳は、気味悪そうに水槽の中のトカゲを覗いている。
　水槽を指でつついていたので、私は注意した。
「だめだめ！　トカゲはデリケートなんだから、びっくりしちゃうよ。病気な
んだから静かに休ませといて」
　私は、犬や猫はかわいいとは思えないのだが、爬虫類には親しみを感じる。
　本当はヘビを飼いたかったのであるが、
「直ちゃんがいなくて、あたし一人のときにケースから脱走したらどうするの
っ？」
　と猛反対され、トカゲで妥協した。
「毒蛇じゃないんだからたとえ噛まれたって平気だよ。ヘビの洗練された美し
さがわからないなんて、千佳は美意識が低いなぁ」
「あたしの方が世間的にはふつうなんですよーだ」
　千佳はあっかんべーをした。

　ここのところ、トカゲが足を引きずっている。背骨も少し曲がっているよう
だ。クル病の症状で、ビタミンと日光浴が不足するとかかる病気なんだそうで
ある。治療法は、えさに総合ビタミン剤を混ぜることと、こまめな日光浴。
　介護の甲斐あって、ひきずりは徐々に回復してきている。
　これからは、えさが単調にならないように気をつけねばならない。カエルや
カマキリをできれば部屋の中で飼育したいのだが、どんなものか。千佳に却下
されることは火を見るより明らかだ。「いーやっ！」顔が浮かぶ。
　プラダのバッグを欲しがってたから、それとの交換条件で承認してもらおう
かと思う。セックスがからまないときの私は、こうも意気地が無いのである。

「あ、動いた動いた。足取りが軽くなってきてるね」
「一緒に暮らしてると、情がわいてくるでしょ？」
　私は訊いてみる。
「ううん。どうかなあ。ねえ、何でトカゲなんか好きなの？」
「トカゲってさ、知ってると思うけど、自分の身を守るためにシッポを切り離
して逃げるじゃん。そこが面白いよね。マヌケっていうか、かわいいっていう
か、偉大な発想だよね。見てみる？　トカゲが元気になったら、やって見せよ
うか？　すぐ切れるよ、ぷつんって。でね、切れたシッポ、しばらく動いてる
んだよ。ぐにょぐにょ〜って」
「遠慮します！　直ちゃんなら、冗談じゃなくて本当にやりかねない」

　洗濯機は勢いよく音を立てている。私は千佳のオリモノが大好きだ。
　その独特の匂いは何にたとえれば適当だろうか。ほとんど無臭なのだが、腐
りはじめのバナナの匂いにちょっと似ていなくもない。かすかな異臭は私の鼻
とよく馴染む。私にとっては、たまらない芳香なのだ。
　千佳のパンツに付着したオリモノを、私は食べる。
　体内から出たばかりの粘液状のオリモノは、乾くと白く細かい砂になってパ
ンツにくっつく。
　指でこそげると、白い粉が収穫できる。量はわずかだ。私は、砂糖を嘗める
ようにそれを食べてしまう。

「直ちゃんと付き合いだして、びっくりさせられたことはたくさんあるけど、
恋人の下着の匂いを、恋人の目の前で嗅ぐ人も珍しいよね。あたし、最初、本
当に驚いたな。こういう女の人もいるんだなって。変態行為って男の専売特許
じゃないんだなあって。下着だけかと思ったら、あたしの使った後の生理ナプ
キンの匂いも嗅ぐしね。汗びっしょりのＴシャツを洗濯籠に入れておいたら、
直ちゃんがそれを引っ張りだして着てたりとかさあ」

　汗まみれのＴシャツは私の好物だ。塩っぽい匂いと女性特有の甘い匂いが混
在して、何ともいえずいい香りなのだ。でも一番好きなのは、なんといっても
生理ナプキンだ。血をゼリーにしたらこんな匂いなんだろうな、というかんじ
の匂いがする。付き合いはじめのころは相当いやがられ、信じられない！　と
いう目で見られたものだが、今では千佳も消極的に見逃してくれている。

　私は洗濯、掃除は苦にならない。というか、どっちかというと好きである。
　だが、料理はさっぱりだ。いやそれは正確ではない。まず、自分が料理が得
意なのか下手なのか、がわかっていない。そもそも食に興味が無いので、これ
までの人生において料理っぽいことをしたことがないのである。

　スーパーでは、すぐに食べられるパック入りの惣菜しか買わないし、うちで
はご飯さえ炊かない。第一、千佳がこの部屋に来るまで、うちには炊飯ジャー
が無かった。そんなもの持ってなかった。それまでは、電子レンジで温めるだ
けのレトルトご飯を買い置きしていた。ケロッグのコーンフレークも欠かせな
い必需品だった。当然、外食が多い。外食ですませられないときだけ、仕方な
く家で食べるわけだ。栄養のバランスなんてどうでもよかった。
　だけど、そのくせビタミン剤の類は好きで、そういう錠剤のビンは部屋に大
量に置いてある。

　家事の分担は自然、食事が千佳となる。私とちがって彼女は料理が上手だ。
　千佳と暮らしだしてから、私はまともな食事をとっている。
　けれど、手料理が食べられてうれしいかといえば、そうではないからこれが
困る。正直なところ、パック惣菜でも、コンビニの弁当でも、レストランの豪
華な料理でも、千佳の手料理でも、私はお腹がいっぱいになれば、何でもかま
わないのだ。
　あるとき、千佳が言った。
「直ちゃん、食べる前に、美味しそうだね、とは言うけどさ、食べおわってか
ら、ああ美味しかったって、一度も言ったことないね」
「そうだったっけ？　ごめん。美味しいよ。今まで言わなかっただけ」
　私は慌ててそう言った。はっとさせられた一言だった。
「嘘くさいなあ。でも、いいけどね。美味しくなくても、直ちゃんが野菜炒め
とか食べてる姿見ると、あたし、ほっとするから。直ちゃんがちゃんとしたも
の食べてるって思うと、何だかそれだけでジーンとするよ」
　千佳はふざけて泣きまねをする。

　ほっとするのは千佳だけではない。ちっとも食事を楽しめない私みたいな人
間でも、きちんとした食生活を送っている人のそばにいられるということは、
それだけで何となくほっとしているのだ。自分までまともになった気がするの
かもしれない。
　以前、ヨーグルトが主食、朝も昼も夜もヨーグルト、ヨーグルト、ヨーグル
ト！　の男と同棲したことがあった。部屋に遊びに来て、私たちの食事風景を
見たある人は、「心が冷えるね」と笑った。

　龍男とはペットショップで知り合った。トカゲを買ったとき、トカゲにはこ
ういう病気があるからね、とクル病のことを教えてくれたのが龍男である。
　クル病なんてトカゲも人間みたいな病気にかかるんだ。ふうん。あのときは
聞き流していたが、龍男には感謝しなければならない。

　昨日の夜中、死にそうな声で龍男から電話がかかってきた。ろっ骨を三本と
右手、両足を折られ、入院中だという。とことん、ろくでなしである。いつか
はこんなことになると私は思っていた。案の定だ。
「息子が溜まっちゃってさあ。頼むよー」
　ペットショップの店員を辞めたあと、龍男は「写ルンです」一つで、月収百
万円近い荒稼ぎをしていた。援助交際希望の女の子をホテルでしばいて、エロ
写真を撮り、「このエロ写真をばらまかれたくなかったら二十万用意しろ」と
脅かす。二十万という金額がミソで、それくらいならたいていの女の子が用意
するんだぜ、龍男は得意気に話す。
　そして、一番大切なことは、警察に訴えられないように、一人につき必ず二
十万で終わりにして相手を安心させるためにネガも渡すこと、なんだそうだ。

「何度もずるずる金を要求されりゃあ、向こうも警察に駆け込むんだろうけど
一回できれいに終わりにすれば楽勝だね」
　龍男は豪語していた。だが、その運も一年も経たずに尽きたようだ。ある女
の子が仲間の少年グループに事の次第を打ち明け、龍男は半殺しの目にあわさ
れたというわけだ。

　千佳は、龍男のことをどう思っているだろうか。チャンスがあれば彼女も奴
を半殺しの目にあわせたいと思っているかもしれない。
　龍男は、私に呼ばれてたまにうちにやって来る。お茶にお呼ばれされて、の
このこやって来るわけではない。
　このあいだは、龍男と千佳をセックスさせ、それをビデオに撮った。
　フェラチオなんかしたことない千佳が泣いていやがったので、私は彼女の頬
を張手した。「口に入れるの！」無理矢理くわえさせた。
　千佳の体を散々、おもちゃにした。龍男と私の二人で、千佳の敏感な箇所を
責めまくると、そういう状況下でも体は正直に反応する。
「いやがってるくせに、こんなに濡れてるじゃん。ぐちゃぐちゃだよ。千佳は
本当はすっごくスケベなんだよね。私より本当は千佳の方が変態なんじゃない
？　私のこと好きなはずなのに、こんなアホ男に乳首舐められてよがっちゃっ
てさあ。千佳、サイテーだなあ。淫乱だなあ」
　言葉で侮辱するのが快感だ。
　その映像の使い道はたくさんあって、私にとってはいい収穫であった。
　千佳のフェラチオ姿を見ながら私がオナニーし、オナニーする私を千佳に見
せる。千佳は切れそうなほど唇を噛み、軽蔑した顔で私を睨む。こんな最高な
使い方ができるのだ。

　暇な龍男に、本を差し入れしようと思った。アホな原因で入院しているくせ
に、意外と奴は本を読む。読む本の傾向が私と似ていて、あんな奴と気が合い
たいわけではないけれど、その点では不本意ながら話題が合う。
　水木しげるの『河童の三平』を、私は本棚から抜き取った。最近、読みおわ
ったばかりの一冊である。登場するキャラクターはどれもばかばかしくて素晴
らしいのだが、中でも守銭奴の死神が私は気に入っている。龍男に少し似てい
る。が、龍男が素晴らしいわけではない。そんなとんでもない。水木さんの描
く死神は愛すべきキャラクターだが、龍男はどうしようもない世の中のクズで
ある。

　森の中の大きな切り株の上に、人間の三平と河童の三平がぼーっとした顔で
座っている、ちくま文庫のカバー絵が私は好きである。分厚い本だが、暇なん
だから一日で読めるだろう。龍男なんかのために重い荷物を持っていくなんて
まっぴらごめんだ。一冊で十分である。

「出掛けてくるね」
「どこ？　時間には帰ってきてよ」
　夜、花火大会に行く約束をしていた。千佳は学生だからいいが、私は仕事が
ある。花火大会なんていうものが始まる時刻が私の出勤時間なのである。
「ねえ、行こうよ」、先月から言われていた。「千佳が浴衣着るんだったら、
店長に言って、曜日ローテーション変えてもらおっかな」、私は言った。
　彼女が用意した浴衣は、紺地に花火がぱっと鮮やかに描かれたものである。
　私の分まで買っておいてくれとは言わなかったのに、どうやら同じ柄のもの
がもう一つ買ってある。私と彼女は背格好がほとんど同じなのだ。でも、どう
せ私は着ないのになぁ。
「龍男のお見舞いにちょっとね。何で入院してるか聞きたい？」
「いい。全然聞きたくない」
　あまりにも憮然とした言い方がおかしい。
「これから、あのバカに病院でフェラチオしてくる。溜まってんだって」
　黙っていればいいことなのに、私は彼女の心を凍りつかせたくなる。
　ガラスを叩く音がした。千佳が拳骨で水槽を叩いていた。不機嫌このうえな
い顔をしている。それは私がもっとも好きな顔である。
「ダメだって、そういうことしちゃ。トカゲはデリケ……」
　言いおわらないうちに千佳の張手を食らった。
　もう一発叩かれないうちに、私はその場を逃げ出した。こういうときはいつ
も、トカゲのように何かがぷつんと内部で切れる。でも、それが再生すること
はない。少しずつ自分が欠損していく。欠損させている。切れたシッポはもう
何本になるだろう。
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