RACHI & RAPE
　


　 　部屋を出ていった千佳から、一ヵ月後、電話があった。
「いつものとこ。明日の一時に待ってるから」
「明日はちょっとなぁ。友達の結婚式に呼ばれてるんだよ。大阪だから……」
　千佳は続きを聞かずに、電話を切る。
　結婚式には出席したかった。二次会には久しぶりに会う顔がそろう。カレン
ダーの書き込みを見てその日の予定を知っている千佳が、わざと明日を指定し
たことはわかっている。
　腹は立たなかったが、こまった。知り合いはけっこういるが友達は極端に少
ない私である。高校の時の仲間は大切にしたかった。私には友達と呼べる人間
は彼らしかいないのだ。
　紀伊国屋には行けないな……。だが電話してそれを伝えることができない。
　千佳の居場所がわからなかった。彼女も私も、うっとうしいから携帯は使わ
ない。

　二時を過ぎても千佳は来なかった。三時を過ぎても、五時になっても、現れ
なかった。立ち読みの足がいいかげん痛くなってくる。文庫本を一冊読みおえ
ても、千佳は来ない。
「三島由紀夫レター教室」はかなり面白かった。後書きに感心してしまった。
　人の心を打つ手紙を書くためにはまず、宛て名を正確に書くこと。そんな当
たり前のことを、あの三島がわざわざ書くの？　誰もが不思議に思うだろう。
　つまらないほど当たり前のことに思えるが、当たり前すぎて、これは盲点な
のだった。
　私には、弘美という名前の妹がいるのだが、手紙ではよく広美とまちがわれ
ている。くだらないダイレクトメールならいざ知らず、知り合いからまちがわ
れると、決して気分のいいものではないと彼女はこぼしていた。
　どんなにいいことが書かれている手紙でも、名前をまちがわれたら、すっと
気持ちが白ける。そう言っていた。
「三島」と「三嶋」、「由紀夫」と「由紀男」、名前を書きまちがえるという
ことは、その時点で、人の心を打つ手紙など書けはしない、ということだ。
　めったに手紙は書かない、というか書く相手がいない私だが、これから書く
時は心しようと肝に銘じる。

　本屋は閉店になってしまった。
　通りに出て、そのまま待つ。お腹が空いてくる。ハンバーガーショップに入
って何かお腹に入れようかとも思ったが入れ違いは避けたい。もし千佳が来る
のなら、せっかくここまで待ったのだから、やっぱり会いたい。
「カノジョひとりぃ？」
　二度、声をかけられる。後のは「ざけんなよ！」の顔だったが、最初の男は
タイプだった。いつもだったら、ついていく。そして、寝てみる。
　いい男とはとりあえず寝てみるのが、私のポリシーだ。デートして、映画見
て、海行って、キスして、段階踏んでセックスしてなんていう、ちんたらのろ
のろした付き合いは大嫌いだ。けれども、今日は間が悪い。

　九時になった。後ろから、いきなり怒鳴り声が聞こえて、私は驚く。
「なんでこんなに待ってんのよっ。もう九時過ぎてるじゃない！　バカじゃな
いの八時間も待ってるなんて！　それより何で来たのよ。あたしが意地悪して
わざと今日会いたいって言ったのくらい気がつくはずじゃん！」
「そうだけど、千佳、来ると思ったから」
　こういう場合、ふつうの恋人どうしなら、「私のために何時間も……」と感
激されてもいいはずだ。
　それがなぜだかバカ呼ばわりで、私は面食らってしまった。おまけに、千佳
のバッグで、思い切り頭をぶたれた。
「怒ってよっ。なんで大切な予定のある日に呼び出すのか怒ってよっ。どうし
てそうまでして呼び出したくせに、すっぽかして来ないのか怒ってよっ。直ち
ゃんはあたしに一度も怒ったことがない。ちがう！　直ちゃんは誰にも怒らな
い。直ちゃんは優しいけど、それは嘘。偽物の優しさ。直ちゃんは他人に何に
も期待してないから、本気で怒ったりしないんだよ。直ちゃんは、優しさあま
って冷たさ百倍の人間なんだよ。あなたの優しさは心がこもってない！」

　ひどい言われ様に唖然とした。
　息継ぎを忘れた猛スピードで、千佳は一気にまくしたてた。
「ごめん。怒り方ってよくわからないんだよ。怒りたいことも特にないし」
　ぶたれたところを押さえながら、私は言った。
　路上でこれ以上、言い合いをしたくなかった。
　恵子さんの顔が浮かんだ。恵子さんは近くのカラオケボックスで店長をして
いる。個室で落ちついて話をしたかった。店は混んでいたが、恵子さんは特別
に順番を早めてくれて、私たちはいくらも待たずに部屋へ入れた。恵子さんの
目は「可愛い子じゃん」と、私に言っていた。

「怒んないの？」
「怒らない」
「なんで？」
「なんでだろ」
「怒らせてみようか」
「…………」
「あの写真、捨てちゃったよ」
「あの写真って？」
「まだ気がついてないんだ。本に挟んでたでしょ、写真。引き出しの二番目」
　耳を疑った。
「冗談だよね……。捨てたって、冗談だよね？」
「捨てた。冗談じゃない」
　部屋はしばらくのあいだ、静かになった。
「……殺す」
「殺すの？」千佳は笑った。「たった一枚の写真のために、あたしを殺すの？
へえ。『たった一枚の写真殺人事件』が起きるんだ。ふーん。直ちゃん、警察
に捕まるよ。そういう面倒くさいこと、直ちゃん、死ぬほど嫌いじゃん。あた
しを殺せても、その後のごたごたが面倒くさいんだから、絶対殺人なんてでき
ないよ。直ちゃんはそういう人間」
「完全犯罪で殺すから、捕まらないよ」
「バレる！　絶対。日本の警察ナメないでよ」
「バレない！　絶対。そっちこそ、私をナメるな」
「捕まるって！」
「捕まらないって！　けど、もし捕まりそうになったら死ぬよ。確かに、面倒
くさがりなのは認める。刑務所の中でちまちま規則正しい生活送るなんて、そ
んなの面倒くさいし、まっぴら。だから、いざとなったら死ぬ」
　だんだんと不毛でやけくそになっていく会話に二人とも疲れてきた。
　千佳の目からいよいよ溢れてくるものがあることに気づいたが、ハンカチを
貸す気力も無かった。

「写真見た時、すぐわかったよ。ああ、この人が直ちゃんの一番大切な人なん
だって。一緒の部活だったんでしょ。ソフトボールのユニフォーム着てるもん
ね。直ちゃんが本気になるのはきっと、その人に対してだけなんだよね。その
人とセックスするんだったら、胸に噛みついて痣だらけにしたり、いやがって
るのに手首を入れようとしたりはしないんでしょ。でも、よかった。直ちゃん
はじめて怒ったね。あたし、殺されてもいいよ。一枚の写真より軽い存在なん
だね、直ちゃんにとってのあたしって。笑っちゃうけど、直ちゃんが怒ったん
だったらそれでいいよ。時効って十五年だよね？　十五年は長いけど、がんば
って逃げてね。天国で応援してる」
　私は目を閉じた。
「千佳のことは大切に思ってるよ」
　目を閉じたまま、私は続けた。
「いいこと教えてあげようか。私の夢。誰にも言ったことないんだけど。千佳
にだけ教えてあげる。その人に好きだって言うつもりは全然ない。言えない。
　向こうは、あたしみたいなバイじゃないし、千佳みたいな女の子が好きな女
の子でもないしね。完全ノーマルな女の子だからね。セックスする機会なんて
永遠にこないよ。死ぬまでいいお友達。私の夢はさ、彼女を拉致して、私だっ
てわからないように彼女に目隠しをして、それで彼女をレイプすることだよ。
　汚くて最低でバカな夢でしょ、仮にも友達に対してね。でもそんな方法でも
とらなきゃ、彼女の身体に触れることなんてできないもの。最低の夢をこそこ
そ隠し持ってる、最低の人間なんだよ、千佳が好きな直ちゃんていう人間は」
「もうそれ以上言わないでっ」
　千佳が叫んだ。私は目を開けた。

「ごめんね。写真破いたって嘘だよ。ごめんね。これ、今日、返そうと思って
持ってきたんだよ」
　千佳は、ごそごそとバッグの中を探り、写真を出した。
　夏の校庭で、二人して肩を組んでピースサインをしている。二人きりで写っ
ているのはそれ一枚だけだ。ネガは持ってないし、コピーも取ってない。
　安堵と、急速に吹き出して急速に引いた汗のせいで、私の体は小刻みに震え
た。声の震えが表に出ないように、気をつけて口を開く。
「ね、帰ってきなよ。今、どこに住んでんの？」
　千佳はため息をひとつつく。
「写真の人を強姦できるとしたら優しくふつうにセックスするんだよね。あの
人には変態みたいなことはできないんだよね。したくないんだよね？」
　強姦して優しいセックスというのも変だが、千佳の言うとおりだろう。いや
拉致なんて所詮ばかげた夢想にすぎなのだ。もし彼女に触れることができるな
ら、私は触れるだけでせいいっぱいに違いない。抱きしめるだけで何もできは
しないだろう。

「うん、たぶんそう。千佳にするみたいなひどいことはしない、その人には」
　私は正直に答えた。
「直ちゃんは人としてのバランスがおかしいよ。セックスが絡むと、直ちゃん
は一歩も譲らない。あたしの気持ちを全然考えてくれない。変態で勝手なセッ
クスを押し通すだけ。なのに、セックスが絡まないふだんの直ちゃんは、何で
も譲る。譲りすぎる。直ちゃんはあたしが死んでって言ったらたぶん死ぬし、
貯金ぜんぶちょうだいって言ったらたぶんくれる。おかしいよ。ねえ、直ちゃ
んはおかしいよ。直ちゃんってわからない。あたしも何で直ちゃんなんかを好
きなのかわからない。写真の人とはちゃんとしたセックスがしたいくせに、千
佳には何で平気で変態なことするの？　できるの？　答えてよ。直ちゃんは、
あたしが悲しむのがうれしいの？」
「うれしい……」
「傷つくのもうれしい？」
「傷つくのもうれしい」
「どうして？」
「どうしてだろ」
「千佳が好きなのに？」
「千佳が好きなのに……」
「オウムみたい」
「オウムみたいだね」
　千佳の唇が私の唇に重なった。

　千佳はまっすぐな女の子だ。美人だし、性格は明るいし、男からも女からも
人気がある。かなりモテる。大学でも既に三人から告白されたと言っていた。
　変態バイセクシュアルにはもったいない女の子だ。温かい光に包まれて生き
てきたのがよくわかる。他人から理不尽にいじめられていい理由など何一つな
い人間だ。
　そういう千佳が私は好きだ。可愛い。大切に思っている。それは本当だ。
　けれど、どうにも我慢がきかないのだ。
　これまでも私は恋人ができるたびに、彼女を、彼をひどく痛めつけてきた。
　だめなのだ。好きな人が傷つくことでしか私は興奮できない。傷つけたくな
い人は私にはこの世で一人しかいない。

　千佳は部屋に帰ってきた。覚悟を決めて帰ってきた。
「直ちゃんから逃げない。何されても直ちゃんが好きだから」と言った。

　このごろは、大学のレポートが忙しいらしい。その脇で、私もペンを持つ。
「直ちゃんが手紙書くなんて珍しいね」
　このまえは会えなくて残念だった、とハガキに書く。まちがわれやすい彼女
の名字を、一画のまちがいもないように丁寧にきちんと書いた。
「何で来なかったのもう！」
　三日前、彼女から先に暑中見舞いが届いていた。
「お互いそろそろ、いい人が欲しいよね。いい男できたらすぐ教えてよ！」
　書道の免状を持っている流れるような達筆な文字はいつ見てもほれぼれと美
しいが、彼女の文面は、私の心にトゲを刺す。
　ハガキをバッグに入れて、私は夜の仕事に出かける。
「いってらっしゃーい」
「うん。あ、そうだ。今晩、ホントにあれやってくれるの？」
　途端に、千佳は口をとんがらかして、不機嫌な顔になった。
　でも、そっぽを向きつつ頷いた。
　写真を破ったと嘘をついた一件を、ひどく気にしているらしい。いつもだっ
たら「あれ」を要求しても、すぐにはうんと言わない。
　千佳なりのお詫びの気持ちのつもりなのだろう。

　バイブレーターでオナニーすることを、千佳は心底いやがる。
　真性レズビアンで、しかも極度の恥ずかしがり屋の千佳にとって、それは屈
辱的でみじめな行為なのだ。
　私は服を着たまま、それを見る。恵子さんを呼んであげてもいいかもしれな
い。恵子さんにも見せてあげよう。きっと喜んですっ飛んで来るに違いない。
　二人で千佳のオナニーを観察するのだ。赤の他人の前でオナニーしなければ
ならない彼女の驚愕を想像すると、愉快でたまらなくなる。
　千佳をほっぽって、恵子さんとセックスするのもいい。仲間外れの千佳は泣
く。いいプランだ。

　昨晩、ベッドの上で千佳が言ったセリフはふるっていた。
「ラチ＆レープだね、直ちゃんの夢は。ジョンとヨーコみたい」
　私は腹を抱えて笑った。千佳はくすりとも笑わなかった。
　いつか必ず、今度こそ本気で、彼女は再び私のところから去る。その予感が
雲のように頭の中にたなびいている。そんな白い靄の中にいると、気が狂いそ
うになるほど私は落ちつける。
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