【　あとがき　】

いつごろから、うちの店にできた習慣なのだろうか。 　ホステスが店を辞める日には、名刺交換が行われる。辞めていくホステスは 自分の名刺を仲間の一人一人に渡し、お返しに、みんなからは一枚一枚、名刺 をもらう。店長もいつのまにそんな習慣ができたのかは知らないという。 　店を辞めるその日までに何千人の男性に配ったであろう綾という源氏名が刷 られた名刺を、私は一緒に働いてきた女の子たち一人一人に配った。 　とても不思議な感じがした。お客さんにではなくホステスに名刺を手渡すの はこれが最初で最後だ。何か神聖な儀式みたいな気がして、笑いたいようなし んみりするような妙な気分になった。 　仲のよかった一人二人を除けば、店の女の子たちに私は本当の名前を教えて いない。私も彼女たちの本当の名前は知らない。店では互いに源氏名で呼びあ う。源氏名の象徴が名刺だ。 　ホステスの名刺を大切に扱ってくれるお客さんは、いいお客さんであること が多い。こちらが渡したら、その場ですぐにしまってくれるスマートなお客さ んに私は好感を抱く。逆にじろじろと名刺をいつまでも眺めて、「ケータイの 番号、書いてないじゃなーい」と、いきなりケチをつけてきたり、テーブルに 置いたままにしたり、あげくにそのまま置き忘れていく人に対しては、きっと これからいいお付き合いはできないだろうな、と心の中で判断を下す。 　なぜ、ホステス同士の名刺交換なんていう変わったことが行われるようにな ったのかはわからない。辞めたあとも連絡が取れるようにと、住所や本名を書 いて渡すわけではなく、お客さんに渡すのと同じ名刺なのである。 　本当の名前も本物の経歴も、キャバクラでは必要ない。私は綾でしかない。 　この仕事をしていて、いろいろ細かい面でたいへんなこともあったが、綾で しかないということの自由さは、なんと素敵なことだったろうか。 　この自由の快感の象徴が名刺なのかもしれないと思う。 　名字なんかいらない。綾という虚構の名前が刷られた名刺。 　今、私の手元には、最後の日にもらった何十枚かの仲間の女の子の名刺があ る。更衣室で私と大乱闘した成美、やむにやまれず一日だけ店に子連れ出勤し てきた未婚の母、沙羅、彼女の落ち度は何もないのに、テーブルに付いたとた ん、悪酔いしているお客さんに、「この子イヤ！　女の子チェンジして！」と 苛められ、泣きながらトイレに籠城してしまった由香、タチの悪いスケベな客 に平手打ちしたふみの、お客さんと結婚の約束をして寿退職の予定の美香、夫 がリストラで失業、家計のためにキャバクラ嬢になり、慣れない仕事で十円禿 げができた人妻の奈々……。 　私の職場はキャバクラからＳＭクラブへと変わった。コスチュームも、ボン デージに変わった。収入も二倍は優に増えた。 　Ｍ男の誕生日に、尿道に細い蝋燭を挿入し火をつける。茎の部分を挿入し、 薔薇の花の一輪挿しにすることもある。私が考え出したバースデープレイだ。 　Ｍ男にとって、これ以上ない最高のお祝いの仕方だと自負している。 「誕生日おめでと」 　私が蝋燭に火をつけて言うと、 「こんなうれしい誕生日ははじめてですぅ」 　感極まって泣きだすＭ男もいる（これで指名はがっちりいただきだ）。 　ずんぶんと遠いとこへ来てしまったような気もするが、何も変わってないよ うな気もする。今、私の名刺にはＮＡＯという名前が刷られている。 　ＮＡＯであること以外、誰からも何も問われることはない。住所も雇い主の 他には誰にも教える必要がない。これから先も、虚構の名前一つで私は食べて いくだろう。そういう世界で生きていたい。

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